趙の写真は、外との交流さえ限定的で、ましてや写真に映ることに強い拒絶があった療養所のハンセン病患者たちが、真正面を向いて写真におさまる点に、ひとつの特色があるという。そこに、異形のものを映し込んでやろうなどという意図は感じさせない。親密な空気が通ったのだろうと、こちらが信じたくなるような気配に満ちている。人物を通して、被写体がまとう衣服や巻きつけられた包帯、わずかに手にひっかかったキセル、あぐらをかく畳、うしろに控える障子、ごく数の少ない家具、頭上の照明器具、それぞれの要素が、妙に粒だって見えてくる。
写真は、ハンセン病患者たちが、その言葉をどんなふうに書きつけたのか、またどんなふうに読み込んだのか、も捉えている。そうして咀嚼され、生み出される言葉の密度は、普段私が目にし、叩いている言葉とは、似て非なるものであるかもしれない、とこれは、「ハンセン病文学の新生面」を鑑賞してこそ思い浮かぶ感想だ。
同じような感想を、彼らが使いこなす道具に対しても抱いた。道具は、しばしば身体の感覚器官の延長として表現される。しかし、趙の写真に映る、にかっと笑う顔にかけられたサングラス、器用に(あるいは不器用に)咥えられた万年筆、松本明星が詩に描く、動きを失いつつある手にかかえこむ『杖』、これらの道具は、身体の延長としてではなく、松本が「きれめのない闇」と表現した彼らの周囲に拡がる世界の確からしさ(あるいは不確かさ)を感じ取るために、欠かすことのできないものなのではないかと思えてくる。自分自身が周囲と接続している、接続を保っていることを確認するために携える道具。写真と詩を往復することで、趙について、詩人たちについて、こちらのイメージが喚起/増幅されていく。
道具類は、外から購入するとは限らない。「患者作業」として強いられる仕事は、言葉から想起するのとはかけ離れた広範な内容に及んでいる。義足などは自分たちの手で製作されもした。大工もやれば、道路工事も行う。豚も鳥も牛も飼う。限定された敷地の中で、規則として実現される自給自足の生活。UターンやIターンで農山村に定着し、理想をかなえるために行うものとは、まるで異なる経緯で営まれる共同体(と呼ぶのが正しいのかは分からない)のありように、静かに衝撃を受ける。火葬や、納骨堂の建設さえも患者たちの手によって行われていた。無理やりに詰め込まれて圧縮された社会の姿が写真に映り込んでいて、そこに身を置く人々が形成したものが詩篇として結晶化された、とも言える(状況は段々と改善されていったものでもあるというから、過度に想像を膨らませてはならないのかもしれない)。
不自然に圧縮された社会、という印象が手伝うのか、趙の写真にはもうひとつ気になった点がある。彼が切り取る療養所の風景は、撮影した当時にあってもひとつふたつ時代が遡ったもののように見えたのではないか、という点だ。「患者作業」にどんなに習熟していたとしても、材料、道具、技術、機械など、すべてが戦後激変する外の社会と同じようには手に入らなかったであろうし、ビルや高度なインフラ設備など都市化を前提にしたものが、療養所の中で(少なくともすぐに)必要になるはずもない。撮影されるよりも前から更新されることがなくなって、少しずつ境界の外と位相がずれて時間が歪み、そうして境界の内側に取り残されていったものが写真に映されている。と、そんな錯覚を覚えるのも理由がないことではない。しかしだからこそ、患者たちが(外の世界へと抜け出ようという意思や希望や努力とは別に)自分たちを周囲につなぎとめておくためのぎりぎりの条件がそこにはあったのかもしれない、という考えが頭をよぎる。ハンセン病資料館で松本明星の隣に掲げられていた谺雄二の『鬼瓦よ』と題された詩からも、圧縮された環境にあって、本来は通じるはずのない気脈(空に属する鬼瓦と地上を這う僕)が通じたような、趙の写真と同じトーンを感じるのは、私だけであろうか。
別々の企画として考案されて催された展示が、それぞれ見事に呼応して「ひとつの展示」になっていくという結果を目の当たりにして、いまだに冷めやらぬ不思議な気分を抱えている。
齋賀英二郎